学校法人安城学園
『教育にイノベーションを』−安城学園100年の歴史と展望−
第2章 刻苦の学園づくり - 苦難の女専設立 #1 (第86話)
公開日 2012/08/17
日本近代の農政家・教育者として知られた山崎延吉「現在の農業教育は、知識偏重に陥り、労働を厭(いと)い、実際の役に立たない教育をしている。僕は、こう思うから、農林学校ではこれを打破することに努めた。
教育は勤労主義でなくてはならない。教育は学校だけに閉じこめておくべきではなく社会に延長すべきものである。教育は環境をよくしていかねばならない。
この3カ条を教育信条として具体的な実践を図ったのだが、あなたがこの地に女子専門学校を創ろうと志されることは、安城にとって大いに歓迎すべきことです。
失礼ながら、あなたの経歴、考え方からして、あなたなら、立派な教育成果を挙げていただけるでしょう。実際、僕もあなたと似たような境遇に育ったから、大いに共感しているんですよ」

 山崎延吉が来客に熱く語っていた。客はだいだった。
 山崎は代々加賀藩に仕えた500石取りの武家の家柄であったが、維新により家録を失って貧しさをかこつことに…。学歴は最終、東京帝国大学農芸化学科を卒業したが、生まれつき虚弱体質でまた物怖じする面もあったため集団生活になじめず、小学校では一時退学することにもなった。
 そんな過ぎ来し方が、だいを目の前にした山崎にふと“よく似た境遇”と言わせたらしい。山崎もかの『主婦の友』の特集記事には関心を持って目にしていたと見える。
 文部省にやっと事情を了解してもらうまでに1年以上を費やしていた。出願内諾を得て事を急がねばならない。だいは、白羽の矢を立てるとすぐさま山崎を訪ね、文部省の意向や自分の専門学校設立の志を伝えて、協力を依頼した。その日は大正15(1926)年10月12日であった。
 山崎は自らを「我農生」と称し、『我農生興村行脚日記』と題して日常の記録を綴っていたが、このときのことをその日記にも克明に記していた…。
(つづく)
※ 文中敬称略
 
Copyright © 2011-2014 Anjo Gakuen Education Foundation. All rights reserved.