学校法人安城学園
『教育にイノベーションを』−安城学園100年の歴史と展望−
第2章 刻苦の学園づくり - 創めの地ここに #8 (第62話)
公開日 2012/07/14
明治38年東京裁縫女学校高等科卒業の記念写真。中列左から2人目が寺部だい。前列中央は渡辺辰五郎 この頃の裁縫女学校の輩出にはもう一つの特徴があった。裁縫女学校の半数近くは東京・京都・大阪という大都市のある府県に集中していたが、明治後期には大都市以外でも発達して、大都市圏以外では約5倍という大きな伸びを示したのだ。
 こうしたすう勢は愛知県にも及んだ。
 明治35(1902)年4月には豊橋に豊橋裁縫女学校(現藤ノ花学園)、明治38(1905)年には名古屋に名古屋裁縫学校(現椙山女学園)が創立された。そして、西三河地域でも明治39(1906)年6月に岡崎裁縫女学校(現岡崎学園)の設置が認可されて開校されるなど、各地に私立の裁縫女学校が名乗りを上げた。
 こうした潮流の中、だいは自らの家塾に思いを至らせた。
 だいの家塾に通うのは裁縫技術を習得するという限定的な人が多く、中等の女子教育を受けるとなると、安城では名古屋か岡崎へ通うのが常であった。安城にはそれに応じられる学校がないからである。
 高等小学校卒業者を対象とした女子の上級学校が安城にも必要だ。

―安城にも裁縫女学校を…。それを今できるのは自分しかない。

 安城の現状を直視するにつけ、だいには、裁縫だけでなく、家事や一般教養学科も教える中等の女子教育機関を安城にも設置したいというもくろみが触発されることになったのだった。

* * * * *

 学校の設置認可には、施設・設備、教員構成等の基準を満たさなければならない。資金の限られる中、最小規模でのスタートを図って、小学校令による各種学校を目指した。
 授業料は「月額50銭」と定めた。
 所在する町村と密着する実業補習学校などでは、入学資格を原則的に町内に居住する者に限定して授業料は月額30銭程度にし、他町村から通学する者の場合には50銭に設定する例があった。それにならったのだった。
 だが、それに異論が出た。
(つづく)
※ 文中敬称略
 
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